二人は、煉瓦倉庫を離れ、曲がりくねった小道を抜けて生命医学研究センターにやって来た。
主に医学部関係者が利用する施設で、その名の通り、生命医学分野に特化した多様な研究拠点が集まっている。見た目も堂々たる九階建てで、キャンパス内では一番高い建物だ。
研究区画に入るには専用のICカードでセキュリティを解除する必要があるが、外郭部分だけであれば関係者以外でも出入りが出来る。レストランもカフェも、売店すら入っていない克己的な施設だが、最上階には素っ気ないながらも展望室があり、キャンパスを一望するにはうってつけの場所だった。
「いませんね……」
斜陽の射し始めたキャンパスを見下ろして利玖が呟く。
こうして、風が流れて来ない場所で近くに立っていると、確かにあの鮮烈な香油の匂いを感じ取る事が出来る。
「櫛、今日も入れてきたんだね」
「まだ一か月経っていませんから」利玖は頷き、眉根を寄せた。「でも、魔除けとして機能していない、と思うのですが……」
「それはたぶん、大丈夫。妖とか怪異とか、あとは神格の中で人間に害を与えるものを、僕らが『魔』と呼んで区別しているだけだからね。だから、あの夫婦神が直ちに危険な存在ではないという証明にもなる訳だけど」
「あ、なるほど……」
史岐の言葉に、利玖は、ほっと眉を開いた。
夕暮れ時のキャンパスには、端から薄衣を引くように影が忍び寄っている。服装を手がかりに人捜しをするには不向きな時間帯になりつつあった。
「もうどれが何色だか、よくわからないね」
「では下りましょう」
利玖が即断して、二人でエレベータに乗り込んだ。
一階のボタンを押して、扉が閉まると、利玖は横目で史岐を見た。
「柊牙さんにお願いする訳にはいきませんか?」
冨田柊牙は、史岐の友人で、彼と同じ情報工学科の学部三年生である。
飄々とした風体の男だが、物を探し当て、過去を見る霊視の力を持っている。そのせいで今年の九月には、下手をすれば視力そのものを失いかねない危機に直面したが、史岐によれば、本人はその後も気楽で世俗的な学生生活を謳歌しているらしい。
「それは、やめておいた方がいいな……」
史岐は、一刻みで減っていくライト・オレンジの電光表示を見上げながら答えた。
「ほんのわずかな力しかなくても、長年にわたって人々の信仰を集めた混じりっ気なしの本物の神だ。そういう存在と縁を結ぶ事が、必ずしも良い結果を生むとは限らない。
物を、世界を、つぶさに見過ぎるっていうのは、体を蝕む行為なんだ。神秘まで見通せるようになってしまったら、あいつの眼は焼き切れてしまうかもしれない」
外に出ると、温くまろやかな空気が頬に触れた。
この時期、日が翳る頃には、いつもひりつくような木枯らしが吹くが、今日は祭りの熱気が大学全体を温めているのだろう。そう思うと、離れたステージから聞こえるスピーカー越しの音声も、そこかしこで学生が話す明るい声も、一つ一つが、きらきらと光る鈴のように感じられた。
西の空では、黄玉のような夕日が今しも最後の一欠片を稜線に沈めようとしている。
潟杜市は、坂の街とも呼ばれるが、それは市を東西に挟む山々の中腹まで市街地が広がっている事にも起因する。
強烈な逆光によって純黒のインクを注がれたような闇に染まった山の斜面には、夕支度を始めた家々の明かりが、星のように散らばっていた。
生命医学研究センターを出た二人は、再び剣道部の屋台に足を運んだ。彼らの屋台は人の出入りがさかんな西門の目の前にあったので、もしかしたら、それらしい人物を見た部員がいるのではないかと踏んだのだ。
二つ折りにした段ボールに「完売」と書いた物を堂々と軒先に置き、屋台の中では部員達が酒を飲み交わしている。昼間はいなかったマネージャーの東御汐子の姿もあった。
簡単に事情を説明したが、全員が「巫女……?」と心当たりのない反応を示した。
「コスプレかなあ」遥が呟く。
「コスプレで巫女の格好をする人なんているの?」と汐子。
「そらもう、需要ばっちりやて」
「ふうん……」
コスプレの需要には関心のないらしい汐子は、
「どうしてそんな人を探しているの?」
と利玖に訊ねた。
「さるお方から落とし物探しを頼まれたのですが、その時、近くにいたという巫女姿の人物が行方を知っているかもしれないのです」
桑爪の絵が描かれた学生手帳のページを渡された汐子は、全員にそれを回して検めさせたが、皆一様に首をひねるばかりだった。
「物騒な指貫やね」
最後に遥がそう言って、ページを利玖に返す。
「桑の葉を千切るのに使う道具だよ。刃を外側にして両手の人差し指にはめて、こう……」史岐がコイントスをするように人差し指を曲げた状態で手首をひねる。「葉の根元を挟んで摘むんだ」
へええ、と屋台の面々が声を揃えて感心している所に、広場の方から学生が一人、歩いて来た。
男子生徒だが、色白で、どことなく雅やかな顔つきをしている。遥達に向かって「お疲れさまです」と言うと、利玖と史岐の顔を交互に見やって、あ、と声を上げた。
「えっと、夏合宿にいた……?」
「佐倉川利玖ちゃんと、熊野史岐君や。名前ぐらい覚えときいや」遥はそう言ってから、思いついたように身を乗り出した。「せや、曽根やんにも訊いとこ。こっち来る途中、巫女見いひんかった?」
「巫女? 神社とかにいる、あの?」
「うん」
「見てないですけど」曽根、と呼ばれた部員は大きな目を瞬かせる。「……何でですか?」
「賞金首やさかい」
情報が得られなかったのが面白くなかったのか、遥は出鱈目を言ってちろりと舌を出した。