動揺を悟られないように、利玖はごく自然に興味を失ったふりをして祠から離れた。
少し風向きが変わるだけで、花の香りはまるで万華鏡を回すように多彩に変化する。
利玖は上着の袖で鼻を押さえた。
おかしい。
最初に石段を上ってくる間も、拝殿の前にいる時も、ここまで歩いてくる間も、こんな匂いはまったく感じなかった。それなのに本殿の祠に近づいた途端、普段は使っていない体の器官が突然活性化されたかのように、強烈な花の香りをとらえたのだ。
鼻腔の奥にわずかに残っている、とろけそうに熟れた果実を思わせる甘ったるい匂いを嗅ぐだけで、実物を目にせずとも、蜜をたっぷりと身に抱いた花の姿が脳裏に浮かぶ。
「……ああ、本当だ。〈湯元もちづき〉の屋根もよく見えますね」
ふいに坂城清史の声が聞こえて、利玖は慌てて顔を上げて彼の姿を探した。
そうしないと、指のわずかな隙間から入り込んでくる花の香りに意識まで食い尽くされて、今にも気を失ってしまいそうだった。
清史は、祠の反対側、温泉街に向かって木立が途切れた斜面を見下ろす位置に立っている。一眼レフを構え、鶴真に指南を受けながら市街地に向けてシャッタを切っていた。
利玖も彼の視線をたどって〈湯元もちづき〉に目を向け──そして、がく然とした。
本館の屋上。
露天風呂に竹垣の囲いがされている、その中心。
もうもうと白い湯気が立ちのぼる中に、本館に覆いかぶさるように巨大な樹が聳えていた。
見た目の印象だけでいえば、それは照葉樹によく似ていた。
クスノキ、ブナ、ケヤキ。そういった樹々の名前を利玖は瞬時に連想する。しかし、そのいずれとも大きさが桁違いだった。
枝葉の部分だけで本館の三階分の高さはある。幹も、それを支えるのに充分な太さがあり、剥き出しになった地層の表面のように白っぽく乾いている。
あれほどの巨樹が根を張るには本館の中身を丸ごと土に入れ替えても到底足りないだろう。利玖が見ている世界の物理法則に依らない存在である事は疑いようがなかった。
夜の湿っぽさがまじり始めた風が、辺りの木々を低くさざめかせている。しかし、巨樹にはその風も届いていないようだ。超然と天に向かって伸びる枝葉の末端はまったく揺れていない。ただ、あまりに地上から離れた所にある為か、見えない水に浸かっているかのように、色が薄くにじんでいる。
精気を溜め込んで、はちきれそうに膨らんだ緑の中に、ぽつ、ぽつっと泉のように白い花が咲いている。それらの間を、まるで花粉を集めるミツバチのように飛び交うモノがいたが、それらは利玖が見た事もない造形の翅と脚を持っていた。
清史も充も、その方角を見ているはずなのに驚く様子ひとつ見せない。
二人とも、見えていないのか……。
訳も分からず、ただ人智を超越した美しさをたたえた巨樹に見入っていた利玖は、ふいに背後から刺すような視線を感じて、ぎくっと振り向いた。
懐中電灯の光の後ろ。逆光と木暮れに塗り込められて、そこに佇む者の表情が判然としない位置に、黙ったままこちらを見つめている梓葉と鶴真の姿があった。