銀箭は、古い文献においては竜の姿を持つ氏神うじがみとして登場する。
 潮蕊湖の北岸を見下ろす暗い山の斜面に、わずかな土地とほこらを与えられ、ごく限られた地域の信仰を得ながら氏神としての務めを果たしてきた彼は、ある年、大規模な豊穣祈願の準備が進められていた潮蕊大社を襲い、二柱の祭神──ばのみことものみことの夫妻神──に捧げられた供物を奪うという凶行によって、その名を物語にあらわす。
 当時、夫であるは湖の北岸にある社に出向いており、供物が運び入れられていた南岸の檸篠ねじのの社には身重のだけが残されていた。夫の不在を狙い、社を襲った邪神に対して、彼女は自ら武器を手に取って反抗し、ほぼ全ての供物を奪い取られながらも腹の子を守り抜き、生還する。
 事の経緯を知った矢祉琥羽は激怒した。
 すぐさま支配下にある妖や精霊を呼び集め、逃げた邪神を討ち取って、その首を自分の元へ差し出すように命じたが、それを止めたのは他でもない孳由津藻だった。
 腹の子を庇いながら、たった一人で戦い抜き、身も心も疲れ切っていた孳由津藻は、戦力となる者達が邪神の討伐に向かう事で、社の守りが手薄になる事を極度に恐れていた。
 また、義は自分達にあるとはいえ、かの者の首を落とすという行為が、じきに産まれる子どもにけがれを及ぼすかもしれない。社を襲い、供物を喰らった罰は与えても、命までは奪わないでやってほしいと訴えた。
 母子共々に死の危機に瀕してもなお、潮蕊の守護神として高潔を保とうとする妻の姿に、矢祉琥羽も心を打たれ、邪神の居所を突き止めた後も、彼の力を剥奪した上で二度と地上へ現れる事のないように潮蕊湖の底に封印するにとどめた。


「これが現代に残っている、銀箭とおぼしき存在についての伝承」
 そう言い終えると、美蕗は本のページをめくっていた指をそっと打掛の中に引き込み、息をついた。
「さっきも話したように、銀箭という名は、彼が為した悪行が語り継がれ、万が一にも再び信仰を得る事がないように、すり替えの意味で付けられたものだから、この話を読むだけでは、邪神として書かれているのが銀箭だと結論付けるのは無理かもしれない。だけど、その二つを結びつける記録や研究結果は、探せばいくらでも出てくるわ」
「孳由津藻は矢祉琥羽の妻となり、子を産んだ女神ですが、その力は決して彼に劣るわけではなく、むしろ豊穣や繁栄を司る神としては彼女の方が長く信仰されてきたと聞きます」美蕗が手放した本をめくりながら利玖が話す。「矢祉琥羽の助けを待たずに、自ら武器を手にしてお腹の子どもと社を守ったという逸話も、彼女の強さをよく表していますね」
「潮蕊大社は古来、戦や狩猟の加護を祈る対象でもあったから、そちらの要素は男である矢祉琥羽の方がいくらかは強かったのでしょう。けれど孳由津藻も、同じ民から信仰を受ける神として、ある程度は武芸に長けていたと思うわ」
「史岐さんは、いかがですか?」
 利玖が史岐を見上げて意見を求めた。彼は、美蕗が話を始めてから、一度も口を開かずに腕組みを続けている。
「うん……」と答えた後も、片手を口に当てて、しばらく考え込むような表情をしていた。
「腑に落ちない点が二つある。一つは、僕は潮蕊大社の関係者に何人か知り合いがいるけれど、こんな話は誰からも聞かされなかったという事。孳由津藻命の母性と神格を示すにはうってつけの神話なのに、どうして後世の人々に伝わっていないんだろう?」
もっともね」美蕗が頷き、先を促す。「二つ目は?」
「社が襲撃され、廊の供物が奪い取られた。それ自体が奇妙だ」
「え、そうなのですか?」利玖は瞬きをした。「そんな恨みを買うような方達ではないと?」
「面白いね、それ」史岐は唇を斜めにする。「恨みは……、いっぱい買っているんじゃないかな。まあ、そうじゃなくて、銀箭があまりにも簡単に事を為しすぎているって事だよ」
 史岐は片手で服の胸ポケットの辺りを掴んだ。いつも煙草の箱が入っている場所だ。
「去年の秋、檸篠の社に行った時、僕が煙草を吸いに境外に出たのを覚えている?」
 利玖が頷くと、史岐は「それだよ」と言った。
「僕みたいに、たまに性質たちの悪い妖に絡まれる程度の縁しかない人間でも、穢れを持ち込むとみなされて長居が出来ないほど、あそこには強力な邪気払いの機構が組み込まれているんだ。病原体を殺す作用が強過ぎて、問題のない臓器まで傷つけてしまう劇薬みたいにね。今時、滅多に見かけない仕掛けだよ。獣とはいえ、大量の生け贄を捧げるほど信仰が強かった時代では、それがもっと顕著だったはずだ。儀式の期間だから、社の警戒も普段より厳重だっただろう。それなのになぜ、よこしまな思いを抱いた銀箭が内部まで侵入出来たのか……」
「銀箭は矢祉琥羽の血を引いていた」
 美蕗が明瞭な発音で言った。
「母親は、野に生きる低俗な妖だったと言われている。だけど、父の系譜は代々、潮蕊の信仰の中枢部にいたのよ」美蕗は首をかしげて微笑んだ。「これで、両方の質問に答えられたかしら?」
「ああ……」史岐はわずかに唇を開けたまま固まった。「それ、本当?」
「こんな場面で嘘をついたって面倒が増えるだけよ」美蕗は肩をすくめる。「ただ、これは貴方達に見せられる物証がある話ではないから、信じてもらう他ないけれど」
「つまり、銀箭は矢祉琥羽命の不義の子で、彼の血を引いていた為に容易く境内に侵入する事が出来た」利玖が口に出して確認する。「身重の女神が孤軍奮闘し邪神を退けたという美談も、広まり過ぎれば、いずれは敵の生い立ちや襲撃の動機に人々の関心が向く。それが、彼らの信仰を失う綻びの一端とならないように、襲撃の事実そのものを隠そうとした」
「あとは、これが『神の権威を示す物語』としてはいささか決め手に欠ける、といった所かしらね」美蕗が補足した。「孳由津藻を救う為に高天原たかまがはらの神々が超自然的な現象を起こしてみせただとか、周辺の村人達が一致団結して加勢しただとか、そういうたぐいの話であれば語り継ぐに値する面白味もあるけれど、現実は、夫の不義が招いた泥臭い内輪揉め。それでは後世に伝えた所で、潮蕊大社の威光を高める事には繋がらないと考えたのかもしれないわ」
「ええ。確かに……」利玖は顎を引き、気まずそうに唇をすぼめる。「実際、今のお話を聞いて、何というか、思っていたよりも身近な方達だったんだな、と感じてしまいました」
「あれだけ発祥の古い神社であれば、むしろ謎の多さこそが人々を惹き付けるというもの。至極当然の発想でしょうね」
 そう言うと、美蕗は透きとおるように白い手を重ねて膝に置き、目を瞑った。
「あの頃は潮蕊湖も、玻璃はりのように水の澄み切った、それは美しい湖だった……」
 太古の歌をむような、不思議な深い響きのある声で呟くと、美蕗はゆっくりと目を開けた。
「思えば、あれも哀れな神だったわ」

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