千堂が店の奥から鍵を取ってきて、二人を裏口から外へ案内した。外壁に沿って進み、建物の外に取り付けられた鉄製の階段が見えてきた所で、彼は「あ……」と慌てたように階段の方へ駆け寄る。
「すみません。散らかしっ放しにしていたのをすっかり忘れていました」千堂は、鍵を握ったままの片手を半分だけ広げて見せた。「片付けてきますから、少しお待ち頂けますか。終わったら声をおかけします」
二人の返事を待たずに千堂は階段を駆け上り、壁の中に姿を消した。利玖達にとっては死角になっているが、内開きのドアがついているようだ。
「証拠を隠滅する気かもしれないな」史岐が呟いた。
利玖がきょとんとしていると、彼はいかめしい顔を作って近づけてくる。
「銀箭と接触している証拠とか、今でもあの部屋で娘と会っている証拠とか、隠されるかもしれないよ」
「あ、ええ」利玖は小刻みに頷いた。「そうですね……」
利玖は前を向き、気づかれないように、そっとため息をつく。
彼女の思考は、もうとっくに数時間後の未来に向いて、そこで自分がなすべき事を考えていた。しかし、史岐はその事を知らない。美蕗と柊牙、そして自分の三人だけで進めている計画だった。
以前はこんな局面でも、ある程度は自分の反応を制御出来ていたはずなのに、最近では上手くいかない。特に史岐を前にした時にはそれが顕著だ。
ほんの少し、自分を偽る事に後ろめたさを覚えずにいるだけでいいのに、その程度の我慢が出来ない。何もない、音もしない空間に一人で放り出されて、しらじらとした光で晒しものにされているみたいに、恥ずかしくて、もどかしくて、息苦しくなって、いつも通りの思考がまったく機能しなくなってしまう。自分の周りにあるすべての物から目を背けたい気分になる。
それでも、今回だけは、その嫌悪感から逃げる訳にはいかなかった。
利玖は一瞬、目を瞑って息を整え、表情と言葉遣いをコントロールする。
「でも、見せてもらえないよりはましでしょう?」
「そうかなあ」
「あの高さだと、窓から外に逃げるのは無理そうですね」
「部屋から直接ホールに下りられる経路があれば、表の玄関を通って外に出られるよ」
「ドアベルがついていましたよ」
「タオルでも挟んでおけば、簡単に音が鳴らないように出来ると思うけど」
そんな秘密会議をしていると、千堂がドアを開けて顔を覗かせた。
「お待たせしました。何とか、お見せ出来る状態にしましたので、どうぞ……」
二人は頷き、階段を上っていく。千堂は体でドアを押さえ、入り口を開けて待っていた。
中を覗くと、屋根の勾配に沿って天井が斜めになっているのが見えた。カッタで切り取ったような小さな窓が、途中に一つだけついている。ほとんど屋根裏部屋といっていい質素な造りだ。
部屋の中に入った史岐が、びくっとして足を止めた。
「実は、さっきのお話……、私の絵に値段がつくかもしれないというお話ですが、それを聞いた時、ものすごく嬉しかったんですよ」
千堂の声が背後から聞こえた。部屋の中に入ってきて、ドアを閉めたようだ。
「評価してもらうつもりで描いた訳ではありませんが、それでも、自分以外の人間にとっても価値があるのかもしれないとわかった時には、素直に嬉しかった」
千堂は、まだ塗り残しのあるキャンバスが立てかけられたイーゼルに歩み寄り、愛おしそうにそれを撫でた。
一面に、深淵のような底知れない群青色。それを穿つように、キャンバスの中央に真っ白な発光が描かれている。下書きの線がそのまま残っている箇所があって、素人目にも、それがまだ未完成であるとわかる事以外には、ホールに掛けられていた絵との違いが見つからなかった。
千堂の後ろにも、それがもう一つ。
窓から射し込む光がちょうど当たっているので、見つけやすい、というだけで、
その隣にも。
もっと後ろの方にも。
自分達が入ってきた足音で、彼らが一斉に振り向いたのではないか、と錯覚するくらい。
入り口をくぐったばかりの利玖と史岐のすぐ両脇にまで、ほとんど同じ構図の絵が並び、迫ってきていた。
利玖は思わず後ずさる。
千堂が銀箭と関わりを持っていた事を示す証拠など──娘の事を思い出し、何とかもう一度会えないかと藻掻いた跡など──どこにもなかった。
ここにあるのは、美しい彗星に魅了され、命をすり減らすようにして絵を描き続けた人間の、抑えようもない情動、その一端だけだった。
「いえ、単に、これだけの数を描いていれば、誰でも少しは人の目を愉しませる物を生み出し得る、という事かもしれません。ただ、私にとっては、この場所で絵が描ける事そのものに意味があるのです。自分はいつでもあの彗星を、キャンバスの上に再現しようと試みる事が出来る。それが実感出来る事が大切でした」
話しながら、千堂は部屋を埋め尽くしているキャンバスとイーゼルの間をゆっくりと歩き、一つ一つに目を留めて、時には慈しむように触れた。
「あの……」史岐が口を開いたが、利玖には、彼が握りしめた拳が震えているのが見えた。「娘さん、は」
千堂はすぐにこちらを向いた。
「娘は死にましたよ」
彼は数分前とまったく同じ口調でそう言った。