その日、佐倉川利玖と熊野史岐が帰った後も、千堂が店を開ける事はなかった。
 彗星という特定のモチーフを使い続けていても、それを描いた時の体調、直前に読んでいた本、体の中に入れた物といった種々の要因が有機的な作用をもたらして、絵の出来映えは大きく変わる。単に自然現象を模写しただけだ、としか思えない作品もあれば、何年も前に描いた物なのに、もはや当時の自分がどのような技巧でそれを作り出したのか、分析する事すら出来ない作品もある。
 そういった、傑作と呼べる絵のいくつかに、彼は額装を施していた。決して安く済むものではないので、すべての絵に施す事は出来ない。勲章でも掛けてやるような気持ちだった。
 額装された絵の中から、さらに、持ち運びが容易なサイズの物を探し出し、千堂はホールに戻った。

 初めてこの発光現象を目にした時、彼はカメラを持っていなかった。
 片手に携帯電話を握りしめていたが、それは、柏名湖に娘が転落した事を伝える為に警察に電話を掛けている最中で、撮影機能が使える状態ではなかった。

 早く娘を助けなければ、という焦りと義務感が、初めのうちは確かにあったのだろう。
 だが、何も手がかりが見つからないまま、半日、一週間、一か月と時が過ぎ、周囲の人間が自分に向ける眼差しに徐々に憐憫と諦めが混ざり始めた頃、千堂は、事故の記憶が鮮明に残っているうちに、あの日見た『彗星』の姿を自分の手元に留める事に金と時間を割くようになった。

 痛ましい事故だった、とは思う。
 元気だった頃の娘の姿を思い返すと、心の一片が引きつるような感覚がする時もある。
 だが、娘の無事を願い、吉報を待ち焦がれる気持ちと、もう一度この目で『彗星』を見たいという願望の強さがほとんど拮抗している事には、早い段階で気づいていた。

 千堂はホールの照明を落とし、最も座り心地が気に入っているボックス席に腰を下ろした。目を閉じ、背を丸めるようにして絵を抱え込み、まだ生きて、活動をしている体の隅々を巡る血液の熱さ、そして、間接的にそれに接触している事で、ぬるくなっていく額縁の手ざわりを感じながら、長いこと俯いていた。

 山の向こうに現れた月が緩慢な歩調で天を上り、ホール内の陰影にわずかな変化を与えた。

 どこかから、ノックの音がした。
 控えめな叩き方だった。
 千堂は顔を上げ、いつもの癖で店の入り口の方を振り返る。しかし、そこには誰もいないようだった。
 ソファの背もたれに絵を立てかけて、千堂は席を立ち、入り口に向かって歩き始めた。
 その途中で再び、コン、コンという硬い音がする。
 さっきよりもかなり近い距離でそれが聞こえたので、千堂は、この奇妙な音の発生源が自分の頭上にある事を確信出来た。
 まっすぐに見上げた視線の先に、天窓があった。
 普段は閉店と同時に下ろしているスクリーンが、今日はまだ上がったままになっている。
 自分の為だけに輝く『彗星』が、今日もそこにあった。
 熊野史岐が最初にこの店を訪れた日から『彗星』の輝きは日増しに強くなっていた。あれだけの熱量を一晩中浴び続けていたら、いつかはこの建物も燐光に包まれて、焼け落ちてしまうのではないか、という想像をしてしまうくらいに。
 それだけのエネルギィを投じて『彼』が自分に何を伝えようとしているのかは、もはや、言葉を交わすまでもなく理解出来た。

 あれの正体を、結局、二人には話せずじまいだったな、と千堂は考える。
 彼らはまだ、仕掛けを見破る事が出来ずに悩んでいるのだろうか。いや、もしかしたら、既に独自の結論に辿り着いたのかもしれない。賢そうな若者達だったから……。

 だが、それも今となっては些末な事。
 どんなに素晴らしい頭脳を有していても、慕う相手がいたとしても、『彼』は無慈悲に佐倉川利玖を喰らう。『彼』が認めている利玖の価値はただ一つ、『彼』が利玖の事を、自分の傍らで、自分だけの為に、あらゆる献身をして然るべき存在だと信じ込んでいるからだ。
 なんと原始的で、あからさまな欲望である事か。
 しかし、そういった人知を超えた動機で動く存在であるからこそ、彼が天窓に映し出してくれる『彗星』は──たとえ、その光の強さも、美しさも、実物の十分の一にも満たない模造品であっても──こんなにも自分の心を捉えてやまないのだ。

 入り口の様子を見に行くという目的も忘れて彗星に見入っていた千堂の顔に、突然、影が兆した。自分と彗星の間に何かが割って入ったのだ。
「こんばんは」
 天窓の上から逆さまに店内を覗き込みながら、佐倉川利玖は愛想のない挨拶をした。

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