甘粕寛奈は考えを巡らせていた。
視線の先に、今し方運ばれてきたばかりのウィンナ・コーヒーがある。小ぶりなカップの中でホイップクリームがくるりと円を描く。これをどう飲むべきか。
その一。小手先の細工など不要。カップを手に取り、ごく普通に中身を飲む。しかし、このパターンをシミュレートした場合、飲み終えた自分の顔にはサンタクロースのような白髭が出来ている。
その二。カップについてきた、おとぎの国で生まれたような金のスプーン。これでホイップクリームをすくって下にあるコーヒーを飲むというのはどうだろう? 白髭がつく事態は回避出来るかもしれない。しかし、最良の手とは言えないだろう。ホイップクリームで蓋をされたコーヒーがどのくらい熱いかは未知数だ。寛奈は、どちらかといえば猫舌である。思わず声を漏らしてしまっても、一緒に笑って誤魔化してくれる待ち合わせ相手はまだ店に来ていない。
その三。ホイップクリームが蓋をしているせいで温度の不均一が生じるというのなら、スプーンでかき混ぜて渾然一体としてしまう手もある。しかし、これはいかがなものだろう。明らかに流儀に反しているような気がしてならない。こんな風に見映え良くホイップクリームが盛りつけられてきた意味がないではないか。
ついてきたからには出番があるのだろうとスプーンを手に取ったものの、何か閃く訳でもなく、寛奈はため息をつく。お手上げだ。もう、ウィーン市民に直接訊いてみるしかない。
これから会う幼馴染ならきっと、こんな局面も優雅に切り抜けるのだろう。自分よりも年下なのに、などと余計な事まで考えて憂鬱になりかける始末。
ぶるっと頭を振って気持ちを切り替える。
これはコーヒーに類する飲みものであるという思い込みを、まず捨てるべきかもしれない。何の事はない、パフェのように、ただ上から順番に食べるだけでおのずと完成する、そういう一品だという可能性もある。否、きっとそうに違いない、と決めてスプーンを構えた時、ちりんとドアベルが鳴った。
赤いマフラを巻いた少女が入ってくる。四月になったというのにそんなものを身に着けているとは、さては瀬戸内辺りの熱い潮風で柑橘類と一緒にのびのびと育ったお嬢さんだな、と思ったが、彼女は店内をひと眺めすると寛奈に目をとめ、まっすぐこちらに向かってきた。寛奈の横で立ち止まり、マフラをずらして顔を見せる。
「みいちゃん?」寛奈はびっくりして腰を浮かせた。「うわあ、ごめん、わからなかった。ちょっと見ない間に、まあ、綺麗になって」
「そんな事、ないわ……」
幼馴染みは恥じらうように指先を頬に当てながらテーブルを回り、向かいの席に着いた。手に持っていた紙袋は隣の椅子に置く。
マフラを外すと、首回りは厳重に防寒している割に、下は黒いセーラー服だけでコートも何も羽織っていない事がわかった。案外、寒さよりも、駅前の往来に素顔を晒すのが嫌でマフラを巻いていたのかもしれない。
幼馴染み──槻本美蕗は、寛奈のウィンナ・コーヒーを見て、ふと表情を曇らせた。
「待たせてしまってごめんなさいね。もう、何か食べてしまった?」
「ううん。このコーヒーだけ」
「良かった」美蕗はにっこりと笑う。独り占めしたらばちが当たりそうな笑顔である。
「食べたいものがあるの」と美蕗は壁に掛かったメニューを指でたどり、ビター・チョコレートのような深い色合いをしたケーキの写真の上で「あ、これ……」と手を止めた。
「ザッハトルテ。偶然にも、お揃いね」
寛奈には、何がどう揃っているのかさっぱりわからない。彼女の上品な笑みを真似するだけに留めておく。ザッハトルテ、ザッハトルテ。帰ったら絶対に調べよう、と食い入るようにメニューを見つめていると、何を勘違いされたのか、
「もちろん、寛奈ちゃんにもご馳走するわ」と言われた。
「えっ?」寛奈はぎょっとして首を振る。「そういう訳には……」
「チョコレート、嫌い?」
「大好き」
「なら、一緒に食べましょう」
美蕗は振り返り、カウンタでグラスを磨いていたマスタに「よろしいかしら」と声をかけた。
「このザッハトルテを二つ。それと、紅茶も頂けるかしら。銘柄はお任せします」
良いのだろうか、そんな事を任せてしまって、と寛奈は思ったが、初老のマスタは委細承知の様子で頷き、オーダを書き取って戻っていった。どうやら、ここは客に応じてある程度の融通を利かせてくれる類の店らしい。しかし、自分は別に、知らなくても良い世界だよなあ、と思いながら寛奈はウィンナ・コーヒーのホイップクリームをすくって口に運ぶ。
注文を終えた美蕗はおしぼりで丁寧に手を拭い、持ってきた紙袋の口を開けた。高級チョコレートの缶ぐらいしか入らなさそうな小さい紙袋だったけれど、中から出てきたものは、寛奈の予想よりもさらに小さい。厚紙で出来た白い箱だ。ラッピングもプリントも施されていなくて、見ただけでは中身はわからない。
美蕗は手元で箱を開け、中身を取り出してテーブルに置いた。
「これは?」寛奈は訊ねる。
「オルゴール。少し前に、片付けをしていたら出てきたの」美蕗はそう言って、留め具のような部品を指さした。「本当は、ここを外すと蓋が開くようになっていて、中に螺子があるのよ。でも、今は蓋が開かなくて、せっかくの音色が聴けないの」
「あら、それは……。中で錆び付いちゃってるのかな」
「わからない」
寛奈はスプーンを置き、ウィンナ・コーヒーを脇へよける。
「わたしも試してみて良い?」
「もちろん」
寛奈はそっとオルゴールを持ち上げた。
高価なものだよね、などと訊くのは愚問である。美蕗が手に取って使う道具で、安価で替えが効く存在の方が稀なのだ。
オルゴールだというけれど、とてもそんな風には見えない。円柱をスライスしたような形状で、ちょうど、フェイスパウダーのコンパクトとして使えそうな大きさだ。
たぶん、蓋を開ける事が出来たら、実際に中には鏡があるのではないか。それは、日常的にメイクをする人間としての直感だ。手に取った時の馴染み方も、上蓋に施された繊細な装飾も、明らかに年頃の少女が身だしなみを整える為に使う事を想定して仕上げられている。
そう、本当に……。
時を忘れて見入ってしまっても構わない、と思える。
爆ぜる星をいくつも連ねたように見えるのは、フキの花のレリーフ。そのうちの一つには、透きとおった石が填め込まれている。半地下の店内は薄暗くて、わかりづらいけれど、完全な無色の石ではなく、かすかに金色を帯びているように見えた。ファセット・カットまで施されて、まるで本物の宝石みたいだ。
いや……。
待てよ。
まるで、では、ないのか?
「みいちゃん」寛奈は小さな声で訊ねた。「この、きらきらしているのって、色付きの硝子だよね? こんなに大きいのが、宝石な訳はないし」
「わからない」美蕗は再びそう答える。「わたしの誕生祝いで作らせた特注品だから、カタログを開けばわかるというものでもないの。ごめんなさいね」美蕗は、そこで少し首をかしげた。「宝石だったら、何かおかしい?」
「いや、おかしくはないんだけど、もしも本当に宝石だったら、わたしなんかが素手で持つのはちょっと、恐ろし過ぎて遠慮したいというか」
「なら、色付きの硝子だわ」
「へえぇ」間の抜けた声が口から漏れる。
「だって、寛奈ちゃんが持てなかったら意味がないもの」
「全然意味がわからない……」
マスタが再び現れて、ザッハトルテと紅茶のセットをテーブルに置き、一礼して去って行く。
透明なポットの中ではまだゆったりと茶葉が踊っている。美蕗は先に、ザッハトルテの皿を引き寄せた。
「寛奈ちゃんはオルゴール・マニアではないし、金属加工のプロフェッショナルでもない。今、ここでどれだけ頑張っても、そのオルゴールの蓋を開けるのが無理だという事は、わたし、よくわかっているの」
美蕗の手がフォークを持ち、グランドピアノのように格調高い輝きを纏ったザッハトルテを切り分ける。
「八尋壺という土地に住んでいる方が、開け方を知っていると思うの。寛奈ちゃん、そこへオルゴールを持って行ってくれる? きっと、寛奈ちゃんの力を必要としていると思うの」
「ああ、なるほど……」美蕗の言い方でぴんと来て、寛奈は眉を開いた。「つまり、いつものアルバイトって訳だね」
「やってもらう事は、ほとんど一緒だと思うわ」
寛奈は背もたれに寄りかかって深呼吸をする。
呼び出された理由がわかって、ほっとした。ケーキ一つで少々の危険を伴う仕事を頼まれた事に不満がない訳ではないが、常軌を些か脱した頼み事は美蕗の十八番でもある。
「良いよ」寛奈は頷いた。「じゃあ、このオルゴールは預かるね」
「引き受けてくれるの?」美蕗は目を丸くした。「どうしましょう。わたし、ザッハトルテだけじゃ足りないと思って、余計にお礼を用意してしまったの」
「あ、それは、もらって良いなら、もらおうかな」寛奈は、えへへと笑う。「いやあ、二年生になったら教材やらサークルの活動費やら、何かと入り用で……」
「あら、じゃあ、ごめんなさい。お金ではないの」美蕗は柔らかな口調で言った。
「寛奈ちゃん、熊野史岐って人の事が好きなんでしょう? 一日一緒にいられるようにしてあげる」