階段を下りきると、モスグリーンの車は駐車場の隅で切り返して停車しようとする所だった。初めて来る場所だろうに、見事なハンドル捌きだ。近づいて余計な気を遣わせたら申し訳ないので、寛奈はその場で立ったまま待つ。
この車なら何度か大学の近くで見た事があるな、と思い出した。ナンバまではさすがに覚えていないけれど、珍しい、古い型式の車だし、色が一緒だからたぶん合っているだろう。
潟杜大学の敷地内に生徒用の駐車場はない。北門を出てすぐの所にコインパーキングがあるけれど、かなり強気な料金設定なので、ほとんどの生徒は門の近くに路駐して待ち合わせをする。
そんな中、この車はいつもコインパーキングに停まっていたので、毎回お金を払って使う人もいるんだなあ、と感心していたのだ。
エンジン音が止まり、運転席のドアが開く。
寛奈は体をこわばらせた。
美蕗がやると言ったのなら、大抵の道理はひれ伏して引っ込む事が経験則でわかっていても、相手は遍く女子生徒の憧憬を集めてやまないバンドサークルの花形だ。ぽっと出の貧乏学生が一日貸し切りにして良いような人材ではございませんから本日は不肖わたくしめが代理を務めさせて頂きます、と全然知らない黒服のサラリーマンがやって来る可能性も、想像しなかった訳ではないのだ。
だが、サングラスを外して下りてきた青年にじっと見つめられ、
「甘粕寛奈さん?」
と訊かれた瞬間、その不安は吹き飛んだ。
これが偽物だというのなら、もう偽物で良いや、と彼女の気持ちは綺麗に切り替わった。
「はい」と頷き、ロボットのようにぎこちない動きで前進してお辞儀をする。
「初めまして、甘粕です。今日はよろしくお願いします」
「熊野史岐です。初めまして」青年は、そう名乗り、助手席の方に回ってドアを開けた。「どうぞ。狭いけど」
狭さを気にするような車じゃないんじゃないか、と思いながら、寛奈は身をかがめて乗り込む。シートの座り心地も、周りにあるパネルやスイッチも、寛奈が知っているどんな車とも違っていて、なんだか惑星探査機に乗り込んだような気持ちになった。
ツーシータという話は本当だった。後部座席がない。今どき日本にこんな車があるのか、と驚く。ヘッドレストの後ろには大きなシルバーのリングがついていて、ビームが出そうな感じがしたが、事前の調べでは屋根が開くという話なので、おそらく空力面でのメリットがあるのだろう。無意識のうちに頭上を見て、それが開く所を想像していた。
運転席のドアが閉まる音で我に返る。
シートベルトをして、サングラスをかけようとした史岐が、寛奈のバッグに目を留めた。
「荷物、トランクに乗せる?」
「あ、いえ……」寛奈は首を振る。「自分で持っています。大事なものが入っているので」
史岐は頷き、エンジンを始動させた。
オーディオのランプが点き、スピーカから音楽が流れ始める。音量は、あまり大きくない。しばらく聴いた所で、中学生の頃に見ていたアニメのエンディング・テーマだと気づき、ほんのわずかに肩の力が抜けた。
「シートの位置は平気?」
「大丈夫です」
「じゃあ、出発するね」
車が動き出した。
低速で駐車場を横切った後は、国道の車列に合流し、なめらかに加速する。上り勾配だけど、エンジンは無理をしている様子もなく元気に回転している。
見た時も、ちっちゃい車だな、と思ったけれど、乗ってみると想像以上に運転席との距離が近かった。特に、史岐の左手が寛奈の膝のすぐ横でレバーを握っているので、強く意識してしまう。
かこん、かこんと、それが頻繁に動く。スピードを変える時に、何かを切り替えているようだ。車窓の外の景色よりも、その方がずっと面白くて見入っていたら、
「珍しい?」
と含み笑いで訊かれた。
寛奈は赤くなって「すみません」と謝る。
「いいよ。楽しんでもらえているのなら、何より」
「ちょっと、ハイになっちゃってるかもしれません。もう、何もかも珍しくて」寛奈は顔の前でぱたぱたと手を動かす。「はあ、いけない、いけない」
「エアコンの温度、好きに変えて良いからね」
「はい」と返事をしたが、どれが温度を変えるボタンなのかわからない。運転中の史岐に訊くのも気が引けるが、うっかり違うボタンを押して屋根が開くのはもっと困る。四月上旬の潟杜は、オープンカーを乗り回すにはまだ少し寒い。
幸い、車内の空気は適温に保たれていたので、寛奈は車窓の外を眺めるふりをしながら史岐を観察する事にした。
まず、右手。付き合っているカップルが指輪をするとしたら、こちらの薬指だろう。しかし、何もつけていない。付き合っている相手がいる事を隠しているのは、どうやら本当のようだ。
左の手首には、文字盤の内側に複数のメータと針を備えた腕時計をつけている。飛行機の近くにいる訳でも、空を飛んでいる訳でもないのにパイロットを連想してしまうのは、彼が実際に乗りものを操縦しているという事実と、どこか遠い所へ連れて行ってくれるかもしれない、という期待が見せる幻かもしれない。
ぽーっとなっている自分に気づいて、寛奈は深呼吸をする。やっぱり、エアコンの温度を下げた方が良いのか。
しかし、ボタンの場所を訊く前に言わなければならない事がある。
「先輩」
赤信号で停車したタイミングを見計らって寛奈は切り出した。
「今日の事、本当にすみませんでした。お付き合いしている方がいらっしゃる事は知っています。断ろうとしたんですけど……。わたしの所に話を持ってきた時には、もう先輩に約束を取り付けた後だったなんて、無茶苦茶過ぎますよね」
「美蕗が無茶苦茶なのは、いつもの事」史岐が片手をハンドルから下ろして、横目でこちらを見る。「甘粕さんも、振り回される側?」
「時々、何で報酬がもらえるのかわからないアルバイトを頼まれます」
「どこからでも、札束を出すよね」
その言い方が可笑しくて、寛奈は吹き出す。
「先輩は、えっと、美蕗さんと、どういうお知り合いなんですか?」
「甘粕さんと同じだと思うよ。アルバイトを頼まれたり、暇だから話し相手になれって呼び出されたり」
「へえ……」
話し相手を務めさせる為だけに熊野史岐を呼び出せるとは。
だが、羨ましいとは思わない。そんな感情を美蕗に対していちいち抱いていたらきりがないのだ。
信号が変わり、車が走り出したので、会話は打ち切りになるかと思えたが、意外な事に史岐の方が話を続けてくれた。
「甘粕さんの方が年上だよね。いつも、そんな風に呼んでいるの?」
「いえ、いつもは、みいちゃん、って呼んでいます。本人が、さん付けはよしてくれって言うから。でも、正直、そう言われても……、みたいな雰囲気がありますよね。すごく良い家のお嬢様ですし」
「そうだね。そんな風に呼べるのは、本当に一握りの人間だと思う。というか、甘粕さんだけじゃないかな。うーん」史岐は唸る。「すごいなあ。何か、資格とか持っているの?」
「ふふふ」寛奈は両手で口もとを隠して笑う。
「何? 意味深だね」
「もしかしたら、先輩も何となく気づかれているかもしれませんけれど、それはわたしのとっておきの隠し玉なので、まだ内緒です」
「へえ……」
史岐はちょっと眉を上げて微笑み、アクセルを踏む。
心地良い加速感が寛奈の体を押した。