「わたし、お化けを見た事はありません。小さい頃は、祖父母の家に預けられる事も多かったから、昔ばなしの絵本やアニメなんかを見せてもらって、わくわくしたり、布団に入ってから怖いシーンを思い出して寝付けなくなっちゃったりしましたけれど、小学校を卒業するくらいのとしにはもう、そういう話の大半は教訓を含んだ創作か、現在では原理が解明されている自然現象を大袈裟に記録したものなんだって、割り切って考えるようになっていました。
 でも、みいちゃんと知り合って、時々二人で会うようになってからしばらく経って……、そう、高校に上がってすぐくらいの頃かな、神社の跡地みたいな所に連れて行かれたんです。
 神社といっても、観光客なんか、絶対に来ないような場所ですよ。駅から車で二時間くらいかかって、何の目印もない山の麓から藪をかき分けて歩いた先にある、家一軒分くらいの小さな空き地です。鳥居も玉垣もありません。建物の礎みたいなものが埋まっているのは見えたので、昔、何かがあったのは本当だったんでしょうけれど、その時は奥の方に傷んだ祠が一つ残っているだけでした」
 寛奈は膝の上できつく手を握りしめる。
「秋の初めで、とっても風が気持ち良い日でした。空き地がある所は木立が途切れて、日当たりも良かった。でも……、わたし、そこに入っていけなかった」
 感覚が、と寛奈は言葉を次ぐ。
「……感覚が、一つ飛ばして、やって来るんです。
 例えば、傷んだものを食べた時には、苦味や酸味を感じて、その後、気持ち悪いとか、吐き出したいとかいう風に考える。SNSやテレビでショッキングなニュースを見た時には、それが自分の身にも起こるような気がして、不安になったり、苛立たしく思ったりする。
 その、途中のプロセスがないんです。自分が何を見たのか、何を取り込んだのか、まったくわからないのに、それに対する反応だけがある。皮膚がびりびり痺れるような、異常に強い反応が……。
 みいちゃんは平気みたいでした。何か、感じ取ってはいたようで、きょろきょろ辺りを見ていたから、わたしは、そのせいで余計に怖かったんですけれど。
 わたしが立ちすくんでいると、みいちゃんはにっこりと笑って、これからわたしが話すとおりに想像してね、って言ったんです」
 寛奈はかすかに顎を上げて目を瞑る。
 あの日、美蕗が口にした言葉は、一粒の柘榴石のように記憶の底で光っている。少し集中するだけで、アクセントまで完璧に思い出す事が出来た。
「ここにいるのは、いやな夢を見てうなされている獣たち。目覚めたいのに、眠りが深過ぎて、抜け出す事が出来ないの。ここはとても静かだから、彼らが目覚める切っ掛けも足りていない。だから、寛奈ちゃん、貴女は、たくさんの鈴がついた長い杖を、両手で持っているのよ。とても軽い杖だけど、ひと振りするだけで、この空き地を隅から隅まで撫でられるの。二、三度振ってあげれば、皆の目を覚まさせるには十分だわ。音色を聞く事も、鈴のきらめき見る事も、わたし達には出来ないけれど、彼らの耳にはちゃんと届く。だから、思い切り振ってあげて」
 寛奈は下を向き、ゆっくりと息を吐く。
「もちろん、そんな杖なんて、わたしは持ってきていませんでした。でも、みいちゃんの語る言葉が、頭がぽうっとするくらい美しく感じられて、わたしは目をつぶって、言われたとおりに両手を振っていたんです。ゆっくりと、左右に、二回、三回と……」
 寛奈は目を開けて、史岐を見つめた。
「景色は、まったく変わっていませんでした。当然です。わたしは一歩も動かずに、その場でちょっと腕を動かしただけなんですから。でも、空気は明らかに変わっていました。まるで、本当にさっきまで、目に見えない何かが横たわっていて、わたしが目を閉じている間に立ち上がって、どこかへ去って行ったような……」
 澱みのない空気が巡り始めた空き地に、美蕗は微笑みながら踏み出していき、着物の裾を翻して気持ち良さそうに空を仰いでいた。
 彼女は少し前から、黒いセーラー服の上にあでやかな着物を羽織って出歩くようになっていて、あの日も霞のような淡い色の生地に、桔梗の葉と花を象った絹糸がきらめいていた。
 きっと、ここにはかつて、その花を愛する者が暮らしていたのだろう。
 長らく『何か』によって蓋をされ、新たな花が咲く事のなかったこの土地に、今、再び清浄な空気が吹き込まれた事を、美蕗はそうして、誰かに教えてあげていたのかもしれない。
 そういう思いが、説明されるまでもなく、すっと胸の中に満ちた。
「その時から、わたしは、自分の目には見えなくても確かに存在している世界があるんだと考えるようになりました」
「何かを祓える、という事なのかな」史岐が呟く。
「たぶん」寛奈は頷いた。「みいちゃんは、その力が、オルゴールを開けてもらう為の交渉に使えると言っていました。だから、八尋壺に住んでいる方も、何か込み入った事情があるんだと思います」
 そこまで言い終えてから、寛奈は赤くなった。
「何の証拠もない話で、信じてもらえなくて当然だと思うんですけど……」
「信じる」史岐はすぐにそう答えて、微笑んだ。「僕も、喉に一匹、妖を飼っているよ」
「へっ?」寛奈は間の抜けた声を上げた。「え、今も?」
「うん」
「ごはんとか、普通に食べられるんですか?」
「全然影響ない」史岐はスプーンを取って、またシチューを食べる。「このシチューも美味しいよ」
「へえぇ……」
 寛奈は感心しながら、ようやく自分のシチューの器に触れた。
 まだ温かい。熱いくらいだ。かなり長いこと喋っていた気がするのに、不思議である。
「わたしも頂きますね。喋ったら、お腹が空いちゃいました」
 そう言って、寛奈はスプーンを手に取り、シチューを口へ運ぶ。
──びっくりした。
「美味し過ぎませんか?」
 そう言った後は、しばらく、手が止まらない。
 経験した事のない深い味わいだった。にんじんは柔らかくて甘いし、じゃがいもは、小粒のものを皮ごと切って、少し焼き目をつけてあるのが香ばしい。肉に至っては寛奈がどうこう言える領分を超えている。
 最近、身分不相応に美味しいものを食べ過ぎているなあ、後でつけが回ってきたらどうしよう、などと思いながら食べ進めていたが、途中で手が止まった。
 史岐を見ると、彼も寛奈と同じ具材をスプーンに乗せて首をかしげている。
「何ですかね、これ」
「ね。豆だと思うけど」
「そら豆かなあ」寛奈はスプーンを傾けてじっくりと眺める。「あ、でも、何か模様がありますね」
「専門家に訊いてみようか」
 史岐はスマートフォンを取り出した。
 指で操作した後、何か考えるような間があって、寛奈を見つめ、
「一緒に写る?」
と言った。
「えっ」
「豆だけ撮るより、大きさがわかりやすくて、特定に繋がるかも」
「あ、ああ、なるほど。確かに、そうですね」
 寛奈はスプーンを置き、器を両手で持って撮りやすいように角度をつける。
 専門家って、一体誰に送るのだろう、元より出所のわからない料理なんだから、豆だけに固執しても意味がないんじゃないかと思ったが、熊野史岐の端末のメモリに写真が残るチャンスなんて、この先、二度と巡って来ないかもしれない。メイク・アップしてくれた緋美に対しても義理立てが叶うというものだ。寛奈は精いっぱいの笑顔を作った。
「はい、チーズ」
 シャッタの音が響いた。

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