入り口脇の小窓から中の様子を窺って、利玖は部室の扉を開けた。
 壁際に置かれている色褪せたグリーンのソファ。そこに、平梓葉が脚を組んで座っている。一応、部室の中では、そこが最も清潔な場所なのだが、染みのついたクロスも毛玉まみれのクッションも、梓葉のそばにあるだけで、普段よりも貧相さが際立って哀れだった。
「この小説、面白いわね」
 梓葉は、ハード・カヴァーの新書を膝の上でめくっている。背表紙に書かれている作者名は『波來ならいみつる』だが、それが廣岡充のペンネームである事は、温泉同好会ではもはや周知の事実だった。
「舞台は現代。だけど、当たり前に八百万やおよろずの神々が人と隣り合って暮らしている。教師も、駄菓子屋のおじいさんも、果ては主人公と一つ屋根の下で育ってきた兄までが、実は神につらなる存在だった……」
 梓葉は言葉を切ると、内緒話をするようなトーンで利玖にささやいた。
「これ、初めて読んだ時、どきっとしたんじゃない?」
「そうですね……」利玖は後ろを振り返って、編森吾朗達が付いてきていない事を確かめる。「実の所、あらすじを読んだ時には、少しだけ動揺しました。ですが、読み始めると、そんな事はまったく気にならなくなりました。神々と人間の、厳しくも温かい心のふれ合い。その根底にある、静かで、揺るぎない信仰。読者を退屈させないように緩急をつけて展開する、多彩な人間模様。ぐいぐいと引き込まれて、あっという間に最後まで読んでしまいました」
「本当に、その通りね。……すごいわ。たった一人で、こんな物語を書き上げるなんて」
 梓葉は本を閉じると、そっと炬燵に置いた。
 無地のグレイのニットに黒のパンツ。露出も派手さも抑えられた服装だが、フレイム・オレンジのマニキュアが効果的なアクセントになっている。同じ色の石がついた細い指輪が、右手の人差し指にはまっていた。
 その手で、梓葉は前髪をかき上げると、利玖に向かって微笑んだ。
「久しぶりね。利玖さん」
「はい。お元気でしたか、梓葉さん。もうじき今年も終わりますね」
「そうね……」
 梓葉は、わずかに目を細める。
「実はね。ここに伺ったのも、そういう理由なのよ」
「はい?」
 聞き返そうとして、利玖はそれを思いとどまる。
 梓葉の顔に、一瞬、ひどく疲れているような表情がよぎったからだ。何か頭に引っかかっている事があるかのように、眉間に皺を寄せて、窓の外を見つめている。
 しかし、利玖に向き直った時には、表情も口調も、元の溌剌はつらつとしたものに戻っていた。
「温泉同好会の皆さんを旅館にご招待したいの。今年の冬至を、とびっきりの柚子湯で過ごすつもりはない?」

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