「この話を聞いて、佐倉川さんに決めて頂きたいのは、今夜、私と一緒に本館の屋上に来てくださるか否か、という事です」
 早船鶴真は、そう前置きをして話し始めた。
「佐倉川さんは、本殿の祠の中をご覧になりましたか?」
「はい」利玖は頷く。「手前の方に碁盤と碁笥がありましたね。神具というよりも、お供え物のように見えましたが……」
「ええ、そうです。あれは地元の者が、オカバ様の為に作って捧げている物です。
 オカバ様は、とても柔らかなやり方で人間に近づこうとしてくださる。地の底から、熱すぎず、ぬるすぎず、毒とならない程度に体に作用をもたらす湯を汲み出してくださったり、柚子湯という文化に興味を持たれてご自身でも真似をなさったり……。その一つに、囲碁も含まれるのです。
 オカバ様は、ヒトが編み出した娯楽、特に盤上遊戯に強い関心を示されますが、中でもここ数百年は囲碁を好んでおられます」
「……あの」利玖は、おずおずと手を挙げた。「お話を遮って申し訳ないのですが、どうしても気になって、傾聴するのに差し障りが出てしまいそうなので、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「鶴真さんのお話を聞いていると、まるでオカバ様とじかに対面された事があるような印象を受けるのですが」
「あります」
 鶴真は即答した。
「オカバ様はヒトに馴染む神様ですが、だからと言って『こちらの世界』に住まわれているわけではありません。由緒も信仰もある立派な神様ですから、普段は八百万やおよろずの神々がおわす異界に居を構えておられると聞きます。
 そのオカバ様が人間とふれ合い、同時に自身の存在が人々の記憶から薄れ、信仰が失われる事のないように、樺鉢温泉に恵みを与える儀式。それが年に一度、冬至の夜に行われるのです」
「冬至……、というと、今日ですね」
 利玖は瞬きをして、ゆっくりと息を吸う。
 なるほど……。
 二、三日かけて考えてもらえるような話ではない、と言った梓葉の真意が、これでわかった。
「この儀式には毎年、オカバ様側と人間側から二人ずつつかわすのが習わしになっています。昨年までは父が存命でしたから、私と二人でになえたのですが、今年はこの時期になってもまだ、儀式に加わる資格を持つ方に出会えておりません」
「資格が必要なのですか? 誰でも良いというわけではないのですね」
「そうです。ですが、遺伝的な物ではありません。私は養子で、父──先代の支配人・早船滋久しげひさの血は引いていませんから」
 ごく簡素な語り口で補足してから、鶴真は利玖を見すえた。
「儀式に加わる者に必要な要素はただ一つ。本殿の祠の前に立ち、〈宵戸よいのとの木〉が花をつけた姿を見る事です」
「〈宵戸よいのとの木〉……」利玖は口の中で、鶴真の言葉をくり返す。「それが、本館の屋上に生えている樹の名前なのですね。ただ樹を見たというだけでは不十分なのですか?」
「はい。あれは、ヒトの世界と神々の世界の両方にまたがって生えている、途方もない霊力を蓄えた木ですから、普段から妖や神使と関わる機会が多かったり、感覚の鋭い方だとうっすらと姿をとらえる事はあるようです。
 ただ、花が見えるのは祠の前に立った時だけ。それも〈宵戸よいのとの木〉によって選ばれた一握りの人間にしか見えないものだと言われています」
「何を基準にして選ばれるのかはわかっていないのですね?」
「そうです」鶴真はわずかに肩を落とした。「能見も含めて、誰一人として〈宵戸よいのとの木〉の花を見る事は出来ませんでした。儀式の全貌を把握しているのも、今となっては私と梓葉さんの二人だけです」
(梓葉さんが?)
 旅館の経営に関わっておらず、妖を感じる素質もない彼女がなぜ、と問いかけて、利玖は、はっと息をのみ──そして直後に、
(しまった)
と猛烈に後悔をした。だが、もう遅い。
 梓葉は、額にかかった髪を払って苦笑した。
「そう……、この旅館の中で、鶴真の他に、花を見る事が出来る者がいないとわかった時、わたしは史岐に頼むつもりでした。先代が亡くなられたのは去年の暮れ頃だったから」
 鶴真は、ばつが悪そうに口をつぐんでいる。彼女達の関係がどういう終わりを迎えたのか、部分的にでも聞き及んでいるのかもしれない。
「あ……、ええと、儀式では具体的にはどのような事が行われるのですか? 何か、危険はあるのでしょうか」
 利玖が気を奮い立たせて訊ねると、鶴真は、ほっと眉を開いて続きを話し始めた。

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