食事が進んで、いよいよ牛肉の味噌鍋と鶏の山椒焼きがテーブルに運ばれて来る頃には、程よく酒も出回って、食堂は心地良い賑やかさに包まれていた。
 料理の特色や素材へのこだわり、季節ごとに凝らした工夫など、旅館側から説明しておくべき事項は序盤に能見が話してくれたので、今は梓葉もくつろいだ表情になって、果実酒のグラスを片手に清史と文学史の話題を展開させている。
 廣岡充から分けてもらった味噌鍋の牛肉を頬張って、利玖は「んっ」と目をまん丸にした。
 とろけそうに肉が柔らかい。それなのにしっかりと味が染み込んで、味噌のコクが口いっぱいに広がる。
「青菜を巻いても美味しい」
 親切に横から充が教えてくれる。
 言われた通りに、短く刻んである青菜を肉で包んで食べてみると、ぴりっとした辛味とシャクシャクとした歯ごたえが味わいに変化をもたらして、こちらも唸るほど美味しかった。
 あっという間に空になった小皿を、少しの間ぼうっと見つめてから、利玖はおもむろに両手を合わせた。
「ご馳走様でした」
「まだ山椒焼きが残ってる」面白そうに言って、充はあつかんの入った徳利とっくりを持ち上げる。「飲む?」
「あ、では、少しだけ」
 この後に控えている大仕事を思うと、アルコールは避けたかったのだが、ありがたい牛肉を分けてもらった恩もある。利玖は素直に充の厚意を受け取った。
 そっと猪口ちょこに唇をつける。
 雪の降る夜にうってつけの辛口の清酒だった。

(本当に……)

 全部、うまく行くのだろうか。
 熱燗を飲み込んだ後の焼けつくような余韻が、ふいに、そんな思いを抱かせた。

 ただ〈宵戸よいのとの木〉に望まれたというだけで、
 禄な価値も、対抗手段も持たない自分のような素人が、
 異界に踏み込んで、何事もなく、帰って来られると信じている。
 この惑星ほしで海の向こうに渡ろうとするだけでも、笑ってしまうほど煩雑な手続きが必要になるというのに。

 にぶく冷えた猪口を握り込んで黙っていると、視界の隅で梓葉が立ち上がるのが見えた。
 ハンドバッグを脇に抱え、下座の方からテーブルを回り込んで廊下に出て行く。
 規則正しい足音は、どうやら御手洗いの方に向かっているらしい。
 数秒の逡巡。
 そして、利玖は猪口を置き、椅子から飛び降りた。

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