その夜は、利玖もカフェで眠る事にした。サービスエリアの端から端まで歩いた事になるが、相変わらず誰ともすれ違わない。
 奥の壁際でキューブ形のソファが二つずつ、テーブルを挟んで向かい合っていた。ランプがついているカウンタからは死角になる位置で、通路の明かりも届かない為、自分の足元でさえも定かに見えない。しかし、テラス席に面した硝子張りの壁が近いので、昼間は外光がそれを補うのだろう。
 壁のコンセントからケーブルを伸ばして充電していたラップトップをジュネが片付けて、寝る場所を作った。肘掛けがソファについていないので、一列に並べると、簡易ベッドとして使えたが、二つだけだと利玖でも足がはみ出てしまったので、隣の席から借りてきて必要な長さを確保した。
 毛布はなかったが、寒いとは感じなかった。ジュネがドライヤをかけてくれたおかげだろうか。
 ジュネは、眠たそうにあくびを重ねていたが、枕代わりのクッションに頭ではなくタブレットを置いて、うつぶせで覗き込んだ。
 タブレットの上で、すいすいと指を滑らせるジュネの顔を見た時、利玖は、彼女がどんな話を読んでいるのか、たまらなく知りたくなった。
「ミステリだよ」とジュネは答えた。
「面白いよう。元々、作者の専門がそっちだから、民俗学的な考証もされていて読みごたえがあるの」ジュネはタブレットから顔を上げ、一瞬目をつむって祈りを捧げるような仕草をした。「何度も読み返して想像するんだ。この、少し引っかかるシーンは伏線なのか。どんなトリックが使われたのか。主人公はいつ、どうやってそれに気づくのか……。気づく予定だったのか、って」
 含みを持たせた言い方が気になって、利玖は少し身を起こす。
「書くのをやめてしまわれたんですか?」
「死んじゃった。まだ、若かったんだよ」
 利玖は絶句した。
 待っても、反応が返って来ない事に気づいたのか、ジュネがこちらに顔を向ける。
「海外に行った事はある?」と訊かれた。
 利玖は何も言えないまま首を振る。
「そう……」ジュネは指で眼鏡を押し上げた。「作者はね、生涯、日本国籍だったけど、旅行でアジアの古い王国を訪れた時、強盗に遭ったの。バイク強盗って知ってる? 歩行者の後ろからバイクで近付いて、鞄とか端末とか、ひったくるんだよ。すぐに荷物を手放さなかったから、バイクに引っ張られて転んで、頭を打った。たぶん、それで意識が朦朧としたのかな。立ち上がって、追いかけようとしたけれど、脇から飛び出してきた車に気づかなかった」
 ジュネはつとめて平坦な口調で話していたが、少しずつ声が震え始めた。
「プライベートな旅行だったから、ガードマンもつけていなかったし、渋滞のせいで救急車の到着も遅れた。鞄を奪った強盗犯は近くで取り押さえられたけど、先生の名前どころか、小説を書いている事すら知らなかった。身なりの良い旅行客が一人で歩いていた、ただ、それだけの理由で……」
 ジュネは言葉をつまらせると、タブレットの画面をオフにして、テーブルの方へ押しやった。
「……ひどい。本当に、ひどい。そんな風に外国で命を落として良いような人じゃ、絶対になかった」
 利玖も半端に上体を起こしたまま、ぼんやりとテーブルの上で視線を彷徨わせた。
 視界の端に銀の光が散っている。痺れをともなった、冷たくて気持ち悪い何かが、血管の中をざあざあ音を立てながら巡っていた。
「その鞄には」利玖は呟いた。「どうしても盗られたくない、何かが入っていたのでしょうか。原稿のデータや、次回作の構想や、あるいは、特別に許可をもらって撮る事が出来た資料用の写真のようなものが」
 ジュネは首を振った。
「わからない。鞄に入っていた端末のデータはすべて、日本にいる間にバックアップが取られていた。盗難に遭う可能性が少なくないとわかっておられたのね。カメラのメモリもほとんど新品で、空港の内部や現地の遠景がほんの数枚撮られていただけ。あとは……、もちろん、財布とパスポートは入っていて……、それと、そう、先生がデビューされた時に買われた年代物の手帳も入っていたって、ニュースで言っていたわ」
 ジュネは、微苦笑を浮かべた。
「その手帳に、第三者の目にふれたらまずい何かが書かれていたんじゃないかって勘ぐる記者もいたそうだけど、わたしは、そうは思わない。先生はそういう、なくしたら取り返しのつかないものこそ、セキュリティ・レベルの高い場所にアーカイブされる方だったと思うから」
 話し終えると、ジュネは顔のそばで指を動かした。暗くて、よくわからなかったが、目元を拭ったように見えた。
「良い夢を見られるような話じゃなかったね。ごめん」ジュネは息をもらし、利玖に背を向けた。「もう寝ないとね。……おやすみなさい」

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