十二月になり、利玖が淺井あざい邸を訪れたその日、空は朝から雪がちらついていた。
 重苦しい灰色の雲が幾層にも重なっているが、大気はすっきりと澄んでいる。
 利玖は、淺井邸の裏口に駐められたライトウェイト・スポーツカーの助手席に座っていた。
 隣には史岐がいたが、エンジンを切った後も思いつめた表情で淺井邸の方を見つめている利玖を気遣ってか、何も話そうとはしない。
 裏口の近くに、母屋とは別に建てられた離れがあって、瑠璃はそこにいるのだと、利玖は匠から聞かされていた。淺井邸の敷地そのものが道路からやや高い所にある為、車の中からは、反対側にある母屋は屋根の一部しか見えない。
「匠さんは言わなかったけど、柑乃さんって、女性だよ」
 静けさを壊すまいとしているような、かすれた声で史岐が言った。
「僕は、声を聞いたから。利玖ちゃんの話と照らし合わせて、もう一度考えてみたけど、檸篠ねじのの拝殿にいた何者かと柑乃さんは、やっぱり、違う存在だと思う」
 利玖もため息をつくように、そうですね、と返した。
「あの時は動揺していましたし、瓜二つの柑乃さんを見て、思わずあんな事を言ってしまいましたが、思い返してみると……」利玖は目を伏せて、首を振った。「あれは、柑乃さんではなかったと思います。柑乃さんは、わたし達の前では徹底的に感情を抑えておられたから、考えが読めないという恐ろしさはありましたが、兄に向けている信頼や忠義は、偽りのない物だと感じました。檸篠にいた存在からは、そういう透きとおったものが一切感じ取れなかった」
「思い出さない方が良いよ」
 利玖は顔を上げ、何とかそうしている、というように微笑んだ。
「縁が結ばれるから……、ですか」
「そう」
 史岐は素っ気なく頷いた。たぶん、利玖自身が、大した事ではないのだと思えるように、わざとそう振る舞ってくれているのだろう。
「いわゆるクロンを作るやり方でえる妖もいるし、そうやって生まれた者同士でも、環境によってまったく異なる性質を得る事もある。たまたま化ける手本にした人間が同じだった、っていう事もあるしね」
 利玖は頷きかけて、ふと思い出し、史岐の腹の辺りに目を向けた。
「そういえば、お腹を蹴られたと聞きましたが……、大丈夫ですか?」
「色がね、すごい事になってるよ」史岐はシャツの裾をつまんで少し持ち上げる。「見る?」
 利玖は思い切り手を伸ばして、ぺちんっと史岐の額を打った。


 短い階段を上り、門を押し開けて入った先には、白い石畳が敷かれた洋風の小道が続いていた。
 歩いていく、その右手が庭になっている。
 背の高いバラ類が植えられていて見通しは良くなかったが、奥に平屋造りの建物が一軒あるのがわかった。おそらく、あれが匠の言っていた離れだろう。
 離れの所まで行くだけなら、庭を突っ切るのが早そうだが、初めて招かれた家でそんな真似をするのは無礼にあたるかもしれないと思い、利玖はそのまま小道を歩いた。
 左手には高い石塀が続いていた。敷地の境界に沿って、ぐるりと視界を囲んでいる。この小道は敷地の東端に沿って敷かれているようだ。
 まっすぐ進むと右側に母屋があるはずだが、そちらに向かう道は、真ん中に竹垣が置かれて、先に進めないようになっていた。近づいて見てみると、地面には固定されておらず、簡単に持ち運びが出来る作りのものだった。母屋に招く予定のない来客がある時には、あらかじめここに持ってきて、立てておくのだろう。
 利玖は、竹垣の置かれていないもう片方の道へ進んだ。右に直角に曲がって続いている道だ。
 この道も、母屋に面している左側には、生け垣と柵を組み合わせた厳重な仕切りが作られて、向こう側の景色が見えないようになっていた。
 立ち止まって、庭を見渡した。
 白のペンキが剥げかかったパーゴラの下に、同じ色のテーブルと椅子が並んでいる。ある程度高さのある植木にはすでに霜囲いがされ、バラ類は皆、花を落としていたが、所々に置かれた、さかずきのような形の植木鉢には、まだ、小さな紫色の花をつけているものがあった。
 ゆっくりと冬の眠りにつきつつある庭のほとりを歩きながら、利玖は、奇妙に安らいだ気持ちで、
(花が咲きこぼれる季節になったら、またこの場所に来てみたい)
と考えていた。


 離れの入り口で呼び鈴を鳴らすと、磨りがら越しに誰かがこちらに近づくのが見え、やがて、からからと引き戸が開いた。
「いらっしゃい」
 自分を出迎えた兄の表情は、驚くほど穏やかだった。
「遅くなってしまって……」
「いや、大丈夫」匠はさらに引き戸を開けて、利玖が通れるように脇に避けた。「入っておいで」
 匠に続いて、ほの暗い廊下を進み、その半ばにあるドアを開けると、広い正方形の部屋が現れた。
 天井から床まで、一枚の大きな薄布が下ろされ、室内を半分に仕切っている。
 こちら側には、部屋の出入り口やソファ、固定電話の置かれた台など、生活の為に必要な小物がいくつか見つかるが、向こう側にある家具は一つだけだった。

 桜のような薄紅色のシーツを敷いたベッドに、娘が一人、体を横たえて眠っている。
 覚悟をしてきたつもりでも、その姿を見た途端、びくっと体が震えた。

「大丈夫。眠っているだけだよ」匠が背後からそっと声をかけた。「もう少し近づいてごらん」
 利玖は頷き、薄布へ顔を寄せた。
 胸が痛いほどに早鐘を打っていて、なかなか目の焦点が合わなかったけれど、何度か息をするうちに、少しずつ顔が見えるようになった。
 閉じられた長い睫毛が、目元に影を作っている。
 膨らんだ布団をかけられているのが苦しそうに見えるほど、体は痛々しく痩せていた。手の甲には血管が浮き出ていて、首にも頬にもほとんど肉がついていない。
 しかし、それでもなお、眠る体の内側にふっと火が灯っているのがわかるような揺るぎない強靱さが、瑠璃の面差しには宿っていた。
 手を握りしめて気を保ちながら、瑠璃の顔から体の方へ視線を動かしていくうちに、利玖は、ある事に気がついた。
「ブレスレットがない……」
 匠は頷いた。
「あの日、おまえを呼びに書庫に向かった時、瑠璃が身に着けていた物の中で、それだけが見つかっていない」
 匠はソファに腰を下ろすと、顔の前で手を組み合わせた。
「水の怖さを知っているはずの瑠璃が、おまえを見つけた時、なぜ周りに助けも求めずに一人で飛び込んだのか。そもそも、書庫の内部を熟知していて、危険な地底湖には決して近づかなかったおまえが、どうしてそんな所にいたのか。どんなに調べても体に異常は見当たらないのに、なぜ何年も眠ったままなのか……。根本的な事は、何一つわかっていない」
 言葉を切った兄がこちらを見上げたので、利玖は思わず身を硬くした。何か覚えている事はないか、と訊かれると思ったからだ。
 だが、兄は何も言わず、ふっと頬を緩ませて、窓の外を見た。
「一度だけ、起きて、話をした事がある」
「え……!」
 驚きをあらわにした利玖に、匠は「あまり真面目に取り合わないでくれよ」と苦笑した。
「白昼夢かもしれない。ちょうど研究が煮詰まっていて、寝不足も疲れもひどいものだった。このソファで、いつの間にか、うたた寝をしていて……。気がついたら、瑠璃が体を起こして窓の外を見ていた。呆然としている僕の方を振り向いて、モクレンの匂いがしますね、と言ったんだ。
 僕はたぶん、そうだね、いい匂いだ……、なんて返事をしたと思う。瑠璃は、笑って頷くと、また元のようにベッドに横たわった」
 匠の視線の先には、冬支度を終え、春が訪れるまでの寒さを耐え忍ぶ為に、しんと身を寄せ合う庭木が並んでいる。モクレンの木が本当にあるのか、あるのだとすればどの辺りに植えられているのか、花の落ちたこの時期では見当もつかない。
 それでも兄は、すぐ目の前に、たおやかな娘が手を開いたような形の乳白色の花が咲いていて、その匂いを含んだそよかぜを頬に受けているように、柔らかく目を細めていた。
「誰にも話した事はない。医者を呼ぶ気なんて微塵みじんも起きなかった。あの穏やかな時間に、他人を招き入れるだなんて……」
「……夢じゃ、ないです。きっと」
「そうだね」
 兄はそう言うと、声が揺れそうになるのを抑えるように、うつむいて大きく息を吸った。
「おまえがそう言ってくれる事を、嬉しいと思えるはずだから、ここに連れて来ようと思った」

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