社の中に、ふうわりと絹糸がまとわりつくような花の匂いが漂い始めたのは、オカバ様と鶴真の対局が始まってから三十分ほどが過ぎた頃だった。
 実家を遊び場にしていた幼少期に何度か父から手ほどきを受けたので、利玖も、基本的な石の置き方くらいは知っているが、対局している二人のうちどちらが優勢なのか、ひと目見ただけでわかるほど場数は踏んでいない。だが、盤面を読む事が出来なくてもまったく退屈はしなかった。
 何しろ、ここは異界である。
 自分が当たり前に信じている物理法則すら通用しない可能性があるのだ。
 座布団に織り込まれた模様の意味について想像を巡らせ、床に使われている材木の質感や色味から、それらが元々はどんな生態で、どういう場所に生えていたのか推論を立てる。そうしているだけで、利玖の時間は飛ぶように過ぎていった。
 花の匂いとほぼ同時に、社に異様な熱が満ちている事に気づいたのは、その時である。ちょうど、床板の手ざわりを確かめようとして、こっそり上体をかがめて床に指を伸ばしていた。──その時、突然、とろっとしたぬるま湯をかぶせられたように、ぞくぞくっと躰が総毛立つのを感じたのだ。
 思わず手を引っ込めて、うなじの辺りを触ってみた。
 髪も服も濡れていない。
 だが、神経の芯を通っている糸がかすかに震え続けているような、むずがゆい熱が、ぼうっと体に溜まっていた。

 利玖には知るよしもなかったが、それは、神とヒトが、住まう世界の垣根を超え、ただ知力のみを尽くしてぶつかり合う事によって、結実する為に必要な要素の最後の一つを得た〈宵戸よいのとの木〉が発する、大地を揺るがすようなよろこびびだった。
 いずれ死を迎えるすべての生きものが根源に抱く願い──命を強いままに保ちたい、あるいは、それが叶わないのならば、自分の中に流れるものを少しでも多く、永く次の代に繋ぎたいという願い。そういった衝動を強く想起させるエネルギィとも呼べるもの。

 その感覚を未だ知らない利玖がとっさに思いついたのは、虫達が放出する何らかの物質によって熱病のような症状が引き起こされているのではないか、という事だった。
 すぐさま、利玖はペンライトを手に立ち上がると、さんから身を乗り出して外に向かって光を照射した。
 社の中の明るさに目が慣れていたので、初めはただ茫漠とした闇がある事しかわからなかったが、しばらくすると地響きとともに巨大な物体がこちらに近づいてくるのが見えた。
 ペンライトだけではとても一度に全体を照らせない。アジアゾウ並みの大きさはあるだろうか。表皮に毛がなく、顎の辺りから足元まで、ふんのように長く伸びる器官を備えている所も似ている。だが、よく見ると、左右に三対、計六本の足があった。
 どういう組成になっているのか、吻と頭部の大部分が透明で、ゆっくりと収斂をくり返す網のような無数の管も、それらの大元にある白っぽい綿のような臓器もすべて丸見えになっている。地中から何かしらの栄養素を吸い上げているのか、無数の光の粒子が、吻の中を下から上に向かって移動していた。その発光のために、ペンライトを消していても、ある程度は器官の運動する様子が見て取れた。
 銀河系の生成を模倣しているような緻密な光の収束と拡散に見入っていた利玖は、ふいに、大きな手に肩を掴まれて、びくっと振り向いた。
 オカバ様が連れてきた狗面の従者がすぐ後ろに立っている。彼は無言のまま、さらにぐいっと手に力を込めて、利玖の体を引き戻した。
 そこで初めて、利玖はいつの間にか自分がペンライトを手放していた事、そして、あと少しでも体を前に傾けたら真っ逆さまに社の外に転がり落ちそうなほど大きく身を乗り出していた事に気がついた。
「あ……、ありがとうございます」
 狗面の従者は、一度だけ頷き、黙って元の席に戻って行った。
 ペンライトは座布団のそばに転がっていた。それを拾って、しっかりと懐に仕舞い直す。
 呼吸が早くなっていた。息苦しさが、ずっと続いている。ちかちかと視界の隅に小さな火花が散っていた。
 鶴真や梓葉の話から、虫達が自分に関わりの深い人間──たとえば両親、兄、茉莉花や史岐──に化けてくる事は予想していた。対策も考えてあった。計算外だったのは、この非日常的な状況下にあって、潜まるどころかかえって感度を増し、破滅的な暴走を招きかねない自身の好奇心の強さである。
(まさか、見抜かれてはいないでしょうが……)
 わざわざ幻を生み出し、甘い言葉で籠絡ろうらくしなくとも、あるがままの生態を見せるだけで油断を誘えるのなら、虫達にとってこれほどくみしやすい相手もあるまい。
 一応、鶴真達がこちらを気にかけていないか、ちらっと視線を向けてみる。だが、場を騒がせた事を詫びる気持ちを、言葉にして伝えるのはやめておいた。碁盤の裏に削られた物騒な名前の穴にまつわる逸話を知らない利玖ではない。

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