ぴぃん……、とかねを叩いた余韻のような耳鳴りを境に、時の流れが淀んだ。
 こちらに向かって歩いてくる女の動きが、急に、フィルムを引き延ばしたように緩慢になった。ごくゆっくりと変化はしているのだが、目を凝らさないとほとんど止まっているように見える。
 掴まれた左手を軽く引っぱられて、利玖は驚いて振り向いた。
 桟の下に、男が一人立っていた。
 年は自分と同じくらい。シンプルな白のセーターを着ている。
 目が合った瞬間に、あ、自分は、この人を知っている、とわかって、名前を呼ぼうとしたのだが、彼はそれを見越したように、指先を唇に当てて首を振った。
 どこか寂しい感じのする笑みを口元にだけ浮かべている、その表情もまた、史岐にそっくりだった。

 そっくり?

 数秒遅れて、利玖は、自分が抱いた印象の意味に気づいて息をのんだ。
 史岐ではない。限りなく似ているが、別人だ。頭にしつこく残る違和感がそれを告げている。
 左目の泣きぼくろが『彼』にはなかった。二人の写真を机に置いて見比べれば、もっと多くの違いを羅列する事が出来るだろう。
 その確信だけは、はっきりとあった。

『彼』は利玖の頬に手を当て、それをすっと天へ向けた。
 利玖もつられて同じ方向を見上げる。社の明るさに目が慣れているので、初めは何も見えなかったが、しばらくすると社の屋根よりもずっと高い所、雲に半分溶け込んでいる梢の手前に金平糖のような点が見えた。
 明るい色の衣。
 帯は締めていないらしい。裾が風をはらんで派手にはためいている。
 その下は、胸元から爪先に至るまで、全身黒ずくめの出で立ちだった。
 和服ではない。シルエットは、洋服に近いように見える。ツーピースか、あるいは、女学生が着るセーラー服のような……。
 そこまで考えた時、ストロボを焚かれたような衝撃が脳裏を貫いた。

 まさか。
 あり得ない、と決めつけかけて、
 すぐに、自分でそれを否定する。
 そうだ。入り口はいくらでもあると、あの女も言っていたではないか。

 ペンライトを持ち上げ……、そこで利玖は一瞬、躊躇した。
 逡巡はやがて、苦笑となって顔に現れる。
 対価を払わなければならないだろう。それもきっと、簡単には払いきれない規模の物を。
 だが、遅かれ早かれ、自分はこんな風に彼女に助けを求める羽目になったのではないか。そう思ったら、妙に納得してしまって、またそれが可笑しくて、迷いはどこかへ消えていた。
「ありがとうございます」利玖は『彼』を見つめて微笑んだ。「どこのどなたかは存じません。またお会いする約束も、出来る立場ではありません。ですが、わたしは、あなたから受けた御恩も決して忘れません」
 そう言った後は、もう後ろを振り返らなかった。
 上空にペンライトを向ける。
 短く三回、やや長く三回、最後にもう一度、短く三回の点滅。救助を求める為の最もシンプルなコードを、彼女は覚えていた。
 つかの間の静寂。
 すべてを賭けている利玖にとっては、永遠にも思えるほど長かった。

 そして、地を揺るがすような風が巻き起こった。

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